ヌマンタの書斎

読書日記から始めたブログですが、今は雑記帳になっています。

歯科医の引退

私は40年以上、同じ歯科医に虫歯の治療等を任せてきた。

出会いは偶然であった。三軒茶屋の街に居たことは、近所のおじいさん先生の歯科医院に通っていたが、だいぶ高齢であったから、正直苦手であった。上手い下手は分からないが、あの歯を削る金属音が苦手だった。

そんな時、すずらん通りに新しく出来た歯科医院の噂を聞き、そこへ行ってみるとまるで別世界。明るい待合室と、最新の治療器具がカラフルな治療室。なによりベージュ色の診察椅子が快適だった。もう名前も覚えていないが、この時の経験から歯科医は若い方が良いと思うようになった。

高校を卒業するとすぐ、祖父の居る実家に引っ越すことになった。さすがに家族全員は無理というか、夜遊びの多い私と上の妹は、近所の公団に住むことになった。祖父は寝るのが早く、早起きの人なので夜行性の強い私らは迷惑であったからだ。

別に不便はないし、むしろ親の監視がない自由な生活がありがたかったが、困ったのは歯医者だ。さすがに三軒茶屋の歯医者に通うのは無理があった。そこで私は駅前に最近出来た新しい歯科医院を訪れてみることにした。

当時、H医師の歯科医院は一階が飲み屋で、そのわきの急な階段を登った二階、三階に設置されていた。まだ20代にも見える若い医師であったが、なにより丁寧な治療で印象は良かったので、ここに通うことに決めた。

途中、私が千葉に転勤になったり、三鷹の大学病院に長期入院した時期もあったが、他の歯科医に浮気することなく、数十年歯の面倒を看て頂いた。少し後悔があるとしたら、肝臓に複数の腫瘍が見つかり、精神的に落ち込み、歯の手入れを適当に済ませたことだ。

この間も、H歯科医院から歯のチェックの推奨の葉書は来ていたのだが、私の生きる気力が薄れてしまい、結果的にかなり虫歯が進行してしまったことだ。その後、肝臓は手術の結果、腫瘍の治療には成功した。ところがその後、心臓にあれこれ異常が生じ、最終的にはICD埋込により晩年を過ごすことが決まった。

白状すると、私は痛いのも辛いのも嫌だ。だから再び歯医者に通い始めた。後もう少しで、だいたいの治療が終わる時にH医師より届いたのが、引退の報せであった。そういえば、かつては若々しかった先生も、頭髪が薄くなり、動きも少し緩慢であることに気が付いた。

まぁ私も似たようなものだが、まだ引退できる状況ではないことは自覚している。先日、H医師の最後の治療を受け、40年余り世話になった謝意を伝えて医院を後にした。

いろいろと思うことはあるが、このように静かに引退できることは素晴らしいと思う。実は現在、私の事務所では、某老税理士の引継ぎを依頼されて、かなり忙しい。本来は後数年かけて徐々に引き継ぐつもりだったのだが、突然の訃報により予定が狂ってしまった。

人生、何があるか分からないものだ。私もH医師のように穏やかに身を引きたいと思うが、少々自信がない。どうも私の人生は予定通りにはいかないのがお約束みたいです。